大江電機の歩み

大江電機の歩み

大江電機の歩み第二次世界大戦直後の1947年、大空襲で焼け野原となった横浜で1人の女性が中古の積算電力計やモーターを店頭に並べて売っていた。
夫の大江菊四郎は、商品の仕入れのため、電車で新橋に向かって行った。開業まもない、大江電気材料部である。
それから70年が過ぎ、大江電機となった今、制御機器、システムエンジニアリング、電設資材、リテールソリューションの商社として飛躍を続けグループ従業員140名、売上高およそ100億円まで成長している。

第一創業期 1917-1987

生い立ち

生い立ち

1917年北海道追分町に生まれた大江菊四郎は、多感な幼少期を広大な大地が広がる北海道で過ごしたのち、15歳の時、東京の姉を頼って上京、家は裕福ではなかったため、菊四郎は働きながら、都立上野中学の夜間部で勉強を続け、昼は大蔵省で給仕をしながら、苦学して旧制横浜高等工業学校(現在の横浜国大工学部)の造船工学部航空工学科に入学しました。

青春と自らの人生を飛行機に託して勉学に励みましたが、卒業をする1939年に、戦争がその夢を打ち砕きました。国の方針によって技術者の就職先の統制が始まり、自らの意思に反して追浜にあった海軍の航空技術廠に就職し、技術者として、一式陸上攻撃機の改造設計・開発に従事しました。

太平洋戦争と事業への想い

太平洋戦争と事業への想い1941年12月8日のマレー沖海戦に鹿屋航空隊の技術士官(中尉)として一式陸上攻撃機に搭乗し、自ら操縦桿を握って戦地へ赴いた。その後多くの戦友を失い、自らも生死を彷徨いながら命の尊さ、人の大切さを学びました。「生き残った自分は、死んでいった戦友の命を生きている。戦友達の命を自分が預ったのだ。」
仲間達の無念さを自らのバネとして大江電機の経営に当たってきました。

行動指針としての「誠実体当」は、「商売は平和な戦争だ」銃弾の代わりに誠実さをもって本気でぶつかっていけば、必ず活路は開けるとの信念を表現したものです。また、創業の精神である「人間本位の経営」(人本主義経営)は戦友達の命を預かって生きてきた創業者の優しさから育ってきたものであります。

「大江電気材料部」の看板を掲げ

創業当時の看板
戦後の混乱が続き、創業者大江菊四郎は学校の教員を目指したものの職業軍人として扱われ公職追放で教職の道は閉ざされ、やむなく横浜高等工業や海軍関係の先輩を頼って大手の企業へ就職を目指しましたが、戦地を体験した元海軍大尉の経歴によって一般企業への就職も許されませんでした。仕方なく姉の嫁ぎ先である日本濾水機工業の仕事を手伝い始めました。

濾過機は瀬戸の素焼きの筒(今はセラミック)に水を通すのが基本ですから、瀬戸へ行って焼き物の勉強をする事になりました。瀬戸でお世話になった成田商店さんの社長から、これから戦後の復興需要で電気関係の仕事が増えるから、絶縁碍子の販売をしてみたらどうかと勧められました。

その言葉がきっかけとなり、大江菊四郎は横浜に戻り、1947年6月1日、横浜市南区大橋町2丁目46番地にて「大江電氣材料部」の看板をかかげ、高低圧碍子・碍管・配線器具等の販売を始めました。

大江電機の原点

大江電機の原点創業期の主力商品は、中古の積算電力計やモーターでした。大江菊四郎は背広や時計、靴を売り払って、仕入れ資金とし、リュックを被いて、東京新橋へ仕入れに向いました。多い時は、東京と横浜を電車で1日3往復したという慣れない商売であったが、何とか軌道に乗せようと忙しい合間を縫って東京神田神保町の古書店街で製品カタログを買い込んで研究しました。

やがて、同業者からは電気の専門家として、一目置かれる存在となり横浜のアメリカ軍調達部門と取引を始めると、朝鮮戦争の特需となり、会社の基礎を固めることができ1955年大江電気材料部は「大江電機株式会社」となり、順調に成長して行きます。

制御機器事業のはじまり

制御機器事業のはじまり
1960年代後半に入ると、東芝との直接取引にも成功現在の主力事業である制御機器の取扱いを決断したのもこの頃です。開業の翌年1948年に、現在の大江電機社長大江光正は大江家の長男として誕生しました。

竣工記念披露会大江菊四郎の戦友たちへの思い、社員たちとの絆から生まれたのが「人間本位の経営」です。
大江電機に入って良かったと思える会社にしたい、大江電機と取引して良かったと思われる会社にしたい、創業の精神は、まさに大江菊四郎の人生そのものでありました。

1968年、念願であった現本社ビル第一期工事が完成し企業としての基礎が出来上がりました。その後は、わが国の高度成長期を背景に神奈川県内での事業を拡げていきました。

第二創業期 1987-2019

2代目経営者就任

2代目経営者就任1948年、大江光正は創業の翌年に横浜で生まれました。幼少期は自宅兼用の店舗を遊び場所とし、常に会社の看板を目にしながら育ちました。どこかでこの会社は自分が承継するものだと受け止めていました。

1971年、光正は2代目経営者として入社しました。大江電機をさらに良い会社にしたい。在庫管理・社員育成・コンピューター導入等、自ら先頭に立って新たな仕組みや制度を推し進めました。

入社2年目、父から社長交代は1987年、自分が70歳になった時と言われ、77年の取締役就任後は営業のTOPとして電材中心から制御中心への事業構造を図りながら、将来の企業像を描きながら社員育成に最も注力をしてきました。

4つの経営方針

4つの経営方針1987年、社長交代。創業者は会長となり「会社はすべて社長に任せる。どうなろうとも自分の責任で自由にやれ」と言われ事業継承とは「大江電機の伝統の継承と事業革新を図る」ことを決心しました。創業者や先輩方が、自らの人生とともに築き上げてきた「創業の精神」を積極的に継承しました。「創業の精神」を土台に置いて、その時代に適合した事業革新を続けると決意し、そのために経営の課題として以下を重視してきました。
(1)事業内容の革新 (2)人の成長を図る (3)財務基盤を強化する (4)筋論を通す

成長のインフラに着手

成長のインフラに着手社長就任から3年間で第二創業期の成長インフラに着手。「人本位の経営」を進化させ、「人本主義経営」として企業理念を確立しました。

「個々の成長なくして企業の成長なし」「企業の存続目的は人を成長させること」「仕事を通じて自らを鍛え上げ、自らの成長を図る」「職場は道場」

日経ニューオフィス賞受賞記事

社訓・就業規則・給与規定・人事処遇制度を一新、物流センター建設・本社ビルの全面リニューアル・基幹業務システムの刷新、新コーポレートマークの導入と次々に取り組みました。本社ビルのリニューアル計画は第4回日経ニューオフィス賞で審査委員長特別賞を受賞しました。

コーポレートマークは日本を代表するグラフィックデザイナー粟津潔氏のデザインによるもので、30年を経て横浜スタジアムで存在感を見せています。

バブル崩壊と財務基盤の強化

バブル崩壊と財務基盤の強化1990年に基盤整備が終わり、ここから事業革新へ踏み出すタイミングでバブル崩壊。1992年4月には創業者が逝去し、3期連続の赤字決算に追い込まれ経営者としての厳しい現実に直面することになります。

売上増加だけでは資金繰りは改善されない。BS経営を重視して財務基盤を強化する方向に舵取りし、①実質の無借金経営の実現 ②無担保での借り入れの実現 ③代表者の個人保証解除を目指しました。

FA事業では装置メーカー市場へ注力するとともに、独資子会社を上海・ソウルに設立しシステム部門を独立させてエンジニア子会社を設立、部品販売からお客様の課題解決型事業への転換を行います。
電材事業では横浜市内大手の電気設備会社様を中心に、直需市場・計装市場へと進出、韓国からの輸入ビジネスをきっかけにリテール・ソリューション事業を立ち上げるなど、2008年のリーマンショック後にビジネスモデルが大きく変わってきました。

新たなる100年へ、進化と挑戦

新たなる100年へ、進化と挑戦地域の清掃活動・交通整理をはじめ、カンボジアでの教育支援活動(2019年現在7校の学校校舎寄贈)等の社会貢献を通して、70年を超える企業活動への感謝の気持ちを具体化できるようになってきました。

大江電機株式会社

目指してきた「人本主義経営」ようやく個々の成長なくして企業の成長なしが実感できるようになり、事業規模の拡大と収益性の向上で財務体質も強化され、次の世代への事業継承の環境が整ってきた。2020年3月を最終とする中計「伝統への敬意 成長への革新」では事業部経営に移行し、各事業の分社化の可能性と次世代経営陣の見極めを探ってきました。

2023年3月を最終とする中計「VALUE創造 成長への革新」では、各事業部の分社化、新事業への進出を積極的に進め、第三創業期の経営陣へバトンタッチをしています。